Share

第2話 祖父を救う名医

Author: 雫石しま
last update publish date: 2026-08-23 10:11:00

九条院龍斗さんとの顔合わせから、三日が過ぎた。

私はまだ、あの人のことを考えていた。

冷たい目。人を値踏みするような話し方。

そして、店員に向けたあの冷淡な態度。 ――人を粗末に扱う人。 それが、私の中に残った第一印象だった。

もちろん、一度会っただけで人を決めつけるのはよくない。

 

それでも、これまで私が知っていた男性とは、あまりにも違っていた。私には、男性との付き合いがほとんどない。幼い頃から婚約していた彼を除けば、深い関係になった男性はいなかった。だからこそ、彼の穏やかさが、当たり前だと思っていた。誰かに何かをしてもらったら「ありがとう」と言う。店員が料理を運んできたら「ありがとうございます」と言う。帰るときには「ごちそうさまでした」と頭を下げる。そんなことは、人として当然だと信じていた。

 

でも。龍斗さんと会って初めて知った。

 

それが、すべての人にとって当たり前ではないのだと。

 

「……私、大丈夫かしら」

 

鏡の前で呟く。

白いタイルの壁に、自分の不安げな顔が映っている。

答えてくれる人はいない。

 

その日の午後。母から電話がかかってきた。

 

受話器を通して届く声は、少し緊張しているように聞こえた。

 

『由紀江、おじいちゃんの病院へ行ってきてくれない?』

「おじいちゃん?」

『先生から話があるそうなの』

「わかった」

 

祖父は以前から持病を抱えていた。

数か月前に胆管の手術を受けたばかりで、今は自宅で療養している。

術後の経過は良好だと聞いていたから、私は特に心配することなく病院へ向かった。

 

秋の陽光が、タクシーの窓を淡く照らしている。

 

このときは。これから出会う一人の男性が、私の人生を大きく変えることになるなんて。考えてもいなかった。

 

◇

 

病院へ着くと、受付で名前を告げる。

 

「大河内由紀江、祖父の付き添いです」

 

受付の女性が確認してくれた。

 

「一階の外来ではなく、三階の病棟へお願いします」

「ありがとうございます」

 

私は頭を下げた。エレベーターで三階へ上がり、長い廊下を歩く。白い壁。消毒液の匂い。行き交う看護師の足音。患者を乗せた車椅子が静かに通り過ぎる。どこか落ち着かない空気が、胸の奥に沈んでいく。私は病室の前で足を止めた。扉を開ける。

 

「おじいちゃん」

「由紀江か」

「うん」

 

祖父はベッドの上で笑った。顔色は悪くない。窓から差し込む光が、白いシーツを柔らかく照らしている。

 

「元気そうね」

「お前に心配をかけるほど老いぼれてはいない」

「そう言う人ほど心配なのよ」

「ははは」

 

祖父が笑う。けれど、その笑顔には、少しだけ無理があるように見えた。目元に薄い影が落ちている。

 

「先生から話があるんでしょう?」

「ああ」

 

祖父が目を伏せる。

 

「実はな」

「うん」

「もう一度、手術を受けることになった」

「……え?」

 

胸がざわつく。指先が冷たくなる。

 

「胆管のほうは問題ない。だが、別の場所に腫瘍が見つかった」

「腫瘍……?」

「癌だ」

 

頭の中が真っ白になった。耳の奥で、言葉が遠く響く。

 

「……癌?」

「ああ」

「いつから……?」

「先日の検査でわかった」

 

私は祖父の手を握った。皺の寄った手は、思ったより温かかった。

 

「大丈夫なの?」

「まだ初期だそうだ」

「手術するの?」

「そのために呼んだ」

「誰が執刀するの?」

 

祖父は少し笑った。

 

「有名な先生だ」

「誰?」

「一条蓮先生だ」

 

その名前を聞いた瞬間。病室の扉がノックされた。「失礼します」振り返る。白衣を着た男性が立っていた。年齢は三十代前半くらい。背が高く、すっきりとした顔立ちをしている。けれど、何より印象に残ったのは、その目だった。穏やかだった。静かで、優しい光を宿している。

 

「一条先生」

 

祖父が声をかける。

 

「こんにちは」

「孫の由紀江だ」

「初めまして。一条蓮です」

 

先生は私に向かって、丁寧に頭を下げた。

 

「由紀江です。よろしくお願いします」

「こちらこそ」

 

一条先生は祖父のベッドの横へ行く。資料を静かに広げた。

 

「検査結果について、もう一度説明させていただきますね」

「お願いします」

「今回見つかった腫瘍は、胆管の近くにあります」

「難しい手術なんですか?」

 

思わず聞いた。声が少し上ずっている。

 

「簡単ではありません」

 

先生は正直に答えた。隠すことなく、まっすぐ私を見て。

 

「ただ、今の段階なら、手術で取り切れる可能性があります」

「本当ですか?」

「はい」

 

私は少しだけ息を吐いた。肩の力が、わずかに抜ける。

 

「先生が執刀してくださるんですよね?」

「私が担当します」

「……ありがとうございます」

「まだお礼を言う段階ではありませんよ」

 

一条先生が穏やかに笑った。

 

「手術が終わって、元気に退院できたときに言ってください」

 

その言葉に、私は少しだけ笑った。

 

「はい」

 

祖父も笑っている。病室の空気が、少しだけ明るくなった。白いカーテンを揺らす風さえ、優しく感じられる。

 

◇

 

説明が終わり、祖父が眠ったあと。私は廊下へ出た。一条先生が後ろから出てくる。

 

「由紀江さん」

「はい?」

「少し、いいですか?」

「もちろんです」

「お祖父様は、かなり不安だと思います」

「……そうですよね」

「でも、手術を受ける体力はあります」

「本当に?」

「はい」

 

一条先生はまっすぐ私を見る。その視線は、診察するような鋭さではなく、ただ優しかった。

 

「だから、今はできるだけ普段通りに接してあげてください」

「普段通り……」

「家族が不安そうにしていると、患者さんは余計に不安になります」

「わかりました」

「由紀江さん自身も、無理をしないでください」

「私ですか?」

「はい」

「私は大丈夫です」

「そう言う人ほど、無理をしますから」

 

私は少し驚いた。その言葉。以前、婚約者にも似たことを言われたことがある。『由紀江は何でも一人で抱え込むから』そんな言葉を思い出した。胸の奥が、微かに疼く。

 

「……ありがとうございます」

「いえ」

 

一条先生は微笑んだ。

 

「では、手術の日程が決まったら連絡します」

「お願いします」

 

先生が歩いていく。私はその背中を見つめた。白いコートの裾が、廊下の光の中で揺れている。不思議な人だった。話し方が穏やかで。こちらの話をきちんと聞いてくれる。そして。患者だけでなく、その家族まで見ている。私はまだ知らなかった。この人が、これから何度も私の人生に関わることになるなんて。

 

◇

 

病院を出ると、スマートフォンが鳴った。父からだった。街の喧騒が、少し遠く聞こえる。

 

「もしもし?」

『由紀江、病院はどうだった?』

「手術することになった」

『そうか』

「一条先生が執刀してくれるって」

 

電話の向こうで、父が少し安心したようだった。

 

『それなら大丈夫だろう』

「うん」

 

少し沈黙があった。私は何となく、その理由がわかった。

 

『……九条院家から、正式な日程が届いた』

「結婚式?」

『ああ』

 

胸が重くなる。

 

『来月だ』

「……わかった」

『由紀江』

「何?」

『無理なら、まだ断れる』

 

私は足を止めた。

歩道の端で、秋の風が髪を揺らす。

 

「どういう意味?」

『父さんも、お前を犠牲にしたいわけじゃない』

「……」

『九条院家との関係を考えれば、簡単な話ではない。だが、お前の人生まで犠牲にする必要があるのかと、今も考えている』

 

私は空を見上げた。青い空だった。雲一つない、澄んだ青。

 

「大丈夫」

『由紀江……』

「私が行く」

『本当にいいのか?』

「うん」

 

私は笑った。声だけでも、笑ったつもりだった。

 

「沙奈を守れるなら、それでいい」

 

電話を切った。けれど。胸の奥に、小さな不安が残った。冷たい石のように、沈んでいく。

 

◇

 

その日の夜。私は自宅のリビングで、一人で紅茶を飲んでいた。湯気が立ち上り、オレンジの香りが部屋に広がる。九条院家から渡された資料が、テーブルの上にある。結婚式の日程。新居。家族構成。そして。九条院龍斗の経歴。私は資料をめくった。華やかな経歴。若くして九条院家の事業を引き継ぎ、数々の企業を傘下に収めている。女性関係については、記事になるほどではないものの、社交界では有名らしい。交際していた女性は多い。けれど。結婚歴はない。私は資料を閉じた。

 

「……私、あの人と暮らすのよね」

 

想像してみる。朝、起きる。同じ家で生活する。食事を作る。夫を送り出す。帰ってくるのを待つ。そして。いつか子どもを産む。それが私の未来。そう考えると、胸が苦しくなった。紅茶の温かささえ、届かない。でも。逃げるわけにはいかない。妹のため。家のため。私は自分にそう言い聞かせた。

 

◇

 

翌朝。私は一条先生からの電話で目を覚ました。カーテンの隙間から、薄い朝の光が差し込んでいる。

 

『由紀江さん、お祖父様の手術日が決まりました』

「はい」

『来週です』

「来週……」

『ご家族の方も、手術前に一度説明を受けてください』

「わかりました」

『それと』

「はい?」

『お祖父様が心配していました』

「祖父が?」

『結婚のことです』

 

私は黙った。布団の中で、指がシーツを握りしめる。

 

『無理をしていないかと』

「……大丈夫です」

『そうですか』

 

一条先生は、それ以上聞かなかった。ただ。『何かあったら、いつでも病院へ連絡してください』そう言って電話を切った。私はスマートフォンを握ったまま、しばらく動けなかった。誰かに「大丈夫?」と聞かれるだけで。こんなにも心が揺れる。私は自分が思っていた以上に、不安だったのかもしれない。

 

そして。来週、祖父の手術がある。その翌月には、私の結婚式。人生が、あまりにも早い速度で変わっていく。私は窓の外を見た。

 

「……私、ちゃんと大丈夫よね」

 

誰も答えない。ただ朝の光だけが、静かに部屋へ差し込んでいた。その光の中で。私はまだ知らなかった。祖父を救ってくれるこの医師が。いつか私自身がすべてを失いかけたときにも、手を差し伸べてくれることを。そして。これから始まる結婚生活が。私の人生で最も苦しい日々へと続いていくことを。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 愛を知らない冷酷御曹司の妻になった私~身代わりで嫁いだ私を閉じ込めた夫は、すべてを失ってから愛に気づく~   第47話 飛び立つ鳥

     それから、数か月が経った。 季節は、ゆっくりと変わっていた。 私は実家の自分の部屋にいた。 窓を開けると、春の風がカーテンを揺らす。 柔らかな日差しが、床に落ちていた。「……暖かい」 私は窓辺に立った。 ここへ戻ってきたばかりの頃は、何をしていても胸が苦しかった。 朝起きても。 夜眠っても。 ふとした瞬間に思い出してしまう。 病院の白い天井。 点滴の滴。 あの日の痛み。 そして。 守れなかった小さな命。 何度も自分を責めた。 もっと早く逃げていれば。 もっと強く拒んでいれば。 もっと早く助けを求めていれば。 けれど。 一条先生は、何度も言ってくれた。 ――あなたのせいではありません。 その言葉を聞くたびに、少しずつ息ができるようになった。 私は窓の外を見つめる。「……ごめんね」 小さく呟いた。「守ってあげられなくて」 胸に手を当てる。 もう、そこに命はいない。 それでも。 あの子がいた時間を、私は忘れない。 短い時間だったけれど。 確かに、私の中にいた。 私が愛した、大切な子だった。     ◇ 離婚が成立したのは、それからしばらくしてからだった。 九条院家は、私の実家に対して起きた融資問題についても動いた。 龍斗さんが裏で手を回していたことが明らかになり、関係先との交渉が進められた。 父の会社も、すぐに元通りとはいかなかった。 失った信用を取り戻すには時間が必要だった。 けれど。 家族は、誰一人私を責めなかった。「お前が悪いんじゃない」 父は何度もそう言った。「帰ってきてくれただけでいい」 母は、私を抱きしめてくれた。 妹も。 弟も。 何も聞かずに、ただそばにいてくれた。 私は、その温かさの中で少しずつ自分を取り戻していった。 そして。 ある日。 私は離婚届を見つめていた。 署名をする。 ペン先が、紙の上を滑る。 最後に印鑑を押した。 それだけだった。 長かった。 でも。 終わるときは、驚くほど静かだった。「……終わった」 私は小さく呟いた。 もう私は。 九条院龍斗の妻ではない。 誰かに決められた人生を歩く必要もない。 私は私だ。     ◇ その日の午後。 私は病院を訪れていた。 あの日以来、一条先生には何度も支えてもら

  • 愛を知らない冷酷御曹司の妻になった私~身代わりで嫁いだ私を閉じ込めた夫は、すべてを失ってから愛に気づく~   第46話 別れの朝

     病室に、重い沈黙が落ちた。 龍斗さんの手には、まだケリーバッグが握られている。 けれど、もう私に差し出されることはなかった。 一条先生が、ゆっくりと私たちの間に立った。「九条院さん」「……なんだ」「先ほど、警察に連絡しました」 龍斗さんの顔が上がる。「……警察?」「はい」 一条先生は淡々と答えた。「奥様から聞いていたこれまでの状況と、今日のことを伝えています」「余計なことを……」「余計なことではありません」 一条先生の声は静かだった。「患者さんの安全を守るためです」「俺は何もしていない」「救急車を呼ぼうとした奥様からスマートフォンを取り上げた」「……」「病院でも、診察を受けようとする奥様を止めようとした」「俺は……」「そして先ほど、私を突き飛ばしました」 龍斗さんの顔が強張った。 一条先生は続ける。「警察が来ます」「……待ってくれ」「何を待つんです?」「由紀江と話をさせてくれ」「もう十分です」「頼む」 龍斗さんは私を見る。 その顔には、今まで見たことのない焦りが浮かんでいた。「由紀江」 私は何も答えなかった。「俺が悪かった」「…………」「本当に悪かった」 龍斗さんが一歩近づく。 一条先生が制止しようとする。 けれど。「頼む……」 龍斗さんは私のベッドの前で立ち止まった。 そして。 突然、床に膝をついた。「……龍斗さん?」 次の瞬間。 龍斗さんは、深く頭を下げた。 床に額をつける。「すまなかった」 私は黙って見つめた。「由紀江……許してくれ」「…………」「俺が間違っていた」 声が震えている。「君を閉じ込めたことも、監視したことも……全部、俺が悪かった」「…………」「もうしない」 龍斗さんは顔を上げた。 必死な目だった。「だから、帰ってきてくれ」 私は何も言わない。「俺を捨てないでくれ」 その言葉に。 胸の奥が、ほんの少しだけ動いた。 ――昔の私なら。 きっと、そうだった。 龍斗さんが苦しそうな顔をすれば。 謝ってくれれば。 もう一度だけ信じてみようと思ったかもしれない。 けれど。 今は違う。 私は静かに龍斗さんを見た。「……何を許してほしいんですか?」「全部だ」「全部?」「ああ」「私を閉じ込めたこと?」「……ああ

  • 愛を知らない冷酷御曹司の妻になった私~身代わりで嫁いだ私を閉じ込めた夫は、すべてを失ってから愛に気づく~   第45話 ただ愛されること

     目を覚ますと、白い天井が見えた。「…………」 ぼんやりと瞬きをする。 身体が重い。 腕には点滴の針が刺さっていた。 透明な液体が、点滴の管を通っている。 ポタ。 ポタ。 一定の間隔で、滴が落ちていく。 その音だけが、静かな病室に響いていた。「……ここは……」 声を出すと、自分の声がひどく掠れていた。「病院ですよ」 隣から声がした。 看護師さんだった。「気がつきましたか?」「……はい」 看護師さんが私の手を取る。 手首に指を当て、脈を測っている。「気分はどうですか?」「……身体が、重いです」「無理に動かなくて大丈夫ですよ」 看護師さんの顔を見つめる。 何かがおかしい。 胸の奥がざわざわする。 私はお腹へ手を伸ばした。 いつもなら。 そこに、小さな命がいると思えた。 けれど。 今は――。「赤ちゃんは?」 看護師さんの手が止まった。「…………」「赤ちゃんは……?」 もう一度聞いた。 看護師さんは私を見つめた。 その目が、悲しそうに揺れる。「……」 そして。 ゆっくりと。 首を左右に振った。「…………え?」 意味がわからなかった。「どういう……ことですか?」 看護師さんは答えない。 ただ、辛そうに目を伏せる。 その瞬間。 胸の奥が大きく揺れた。「……嘘」 声が震える。「違いますよね?」 看護師さんが小さく首を振る。「……ごめんなさい」 その言葉で。 すべてわかった。「……いや」 涙が込み上げてきた。「嫌……」 私はお腹を押さえた。「この子……」 声にならない。 昨日まで。 ここにいた。 私の大切な子。 私が守ると決めた。「……ごめんね」 涙が頬を伝う。「ごめんね……」 何度も謝った。 自分がもっと早く逃げていれば。 もっと早く一条先生に助けを求めていれば。 もっと強く抵抗していれば。 そんな後悔ばかりが頭の中を駆け巡る。 ――私が守れなかった。 その思いが、胸を締め付けた。 看護師さんが私の肩にそっと手を置く。「今は、泣いていいんですよ」「……はい」 涙は止まらなかった。     ◇ しばらくして。 病室の外が騒がしくなった。「お待ちください!」 聞き覚えのある声。 私は顔を上げた。 ガチャッ。 扉が

  • 愛を知らない冷酷御曹司の妻になった私~身代わりで嫁いだ私を閉じ込めた夫は、すべてを失ってから愛に気づく~   第44話 私の赤ちゃん

     朝、目が覚めたとき。 最初に感じたのは、下腹部の重い痛みだった。「……痛い」 まだ眠気の残る頭で、私はお腹を押さえた。 昨日までとは違う。 鈍く、重い痛みが下腹に広がっている。 私はゆっくり身体を起こした。 その瞬間。 嫌な感覚がした。 私は慌てて布団をめくった。「……え?」 下着に、ほんの少しだけ赤いものがついていた。 血。 わずかだった。 けれど、妊娠中の今。 それが意味することを考えると、身体中から血の気が引いていく。「赤ちゃん……」 私はお腹に手を当てた。 怖い。 どうしよう。 病院に行かなければ。 すぐにでも診てもらわなければ。 私はベッドから立ち上がった。 下腹部の痛みは、まだ我慢できる程度だった。 私はスマートフォンを手に取った。 そして、一条先生のいる病院へ電話をしようとした。 けれど。 その前に、部屋の扉が開いた。「由紀江?」 龍斗さんだった。「どうした?」 私は反射的にスマートフォンを握りしめた。「……病院へ行きたいです」「病院?」「お腹が痛くて……」 龍斗さんの顔が変わった。「どのくらい?」「わかりません。でも……」 私は言葉を止めた。「少し、出血もあります」 龍斗さんの眉が動いた。「出血?」「はい」「見せて」「……嫌です」 身体を引く。 龍斗さんは一瞬黙った。「由紀江」「病院へ行かせてください」「わかった」 そう言ってくれるのかと思った。 けれど。 龍斗さんの視線が、私の手元へ向いた。「スマートフォンを貸して」「どうして?」「俺が病院に連絡する」「私がします」「由紀江」「自分で電話できます」 私はスマートフォンを握ったまま、一歩下がった。 すると龍斗さんが手を伸ばした。「貸せ」「嫌です」「病院へ行くんだろう?」「はい」「なら、俺が連絡する」「一条先生に診てもらいたいんです」 その名前を口にした瞬間。 龍斗さんの顔から表情が消えた。「……一条?」「はい」「また、あの医者か」 嫌な予感がした。「一条先生なら、私のことを診てくれます」「俺が連れていく」「救急車を呼んでください」「必要ない」「でも……」 痛みが強くなってきた。 私はお腹を押さえた。「っ……」「由紀江?」 額に汗が滲む。

  • 愛を知らない冷酷御曹司の妻になった私~身代わりで嫁いだ私を閉じ込めた夫は、すべてを失ってから愛に気づく~   第43話 締め付ける鎖

     部屋の扉を閉めたあとも、私はしばらく動けなかった。 床に座り込んだまま、両手でお腹を包む。「赤ちゃん……」 小さく呟く。 幸い、今のところ痛みはない。 それでも、さっき床に倒れた感覚が何度も蘇ってくる。 ――怖い。 龍斗さんが怖い。 そして何より、この子を守れないことが怖かった。 私はゆっくり立ち上がり、ベッドへ腰を下ろした。 そのとき。 コンコン。 扉が二度、軽く叩かれた。 身体が強張る。「由紀江」 龍斗さんの声だった。 私は返事をしなかった。「……さっきは悪かった」 意外な言葉に、胸がざわつく。「でも、君があんなことをするからだ」 ――やっぱり。 謝っているようで、謝っていない。 原因は自分ではなく、私にあると言っている。「もう、勝手に外へ出ないでくれ」「…………」「君を守るためだから」 私は唇を噛んだ。 守る。 その言葉を聞くたび、胸が苦しくなる。 私が欲しいのは、閉じ込められることじゃない。 監視されることでもない。 自分の足で歩いて、自分で行き先を決めること。 そして、この子を安心して産める場所へ帰ること。「明日から、警備を増やす」「……え?」「今までより厳しくする。玄関だけじゃない。マンションの出入口は全部だ」 心臓が跳ねた。「どうして……」「今日みたいなことが二度と起きないようにする」「龍斗さん……」「それから、君一人で外へ出るのは禁止だ」 私は扉を見つめた。 その向こうにいる龍斗さんの顔は見えない。 でも、声だけでわかる。 本気なのだ。「病院へ行くときも、俺が付き添う」「…………」「買い物も、家族に会うときも、俺が一緒に行く」「家族に……?」「ああ」 龍斗さんは淡々と続けた。「しばらく、実家にも行かなくていい」「どうしてですか?」「今の君は不安定だから」「それは……」「俺が決める」 胸の奥が冷たくなった。 ――まただ。 私の気持ちではなく、龍斗さんが決める。 私の人生なのに。「……嫌です」 初めて、はっきりと言った。 扉の向こうが静かになる。「何?」「実家に帰りたいです」「駄目だ」「どうして?」「君が帰りたいと言ったら、そのまま帰ってしまいそうだから」「帰りたいんです」「由紀江」「私は……家に帰りたい」 声

  • 愛を知らない冷酷御曹司の妻になった私~身代わりで嫁いだ私を閉じ込めた夫は、すべてを失ってから愛に気づく~   第42話 赤ん坊なんていらない

     その日は。 朝から落ち着かなかった。 何度も時計を見てしまう。 午前十時。 十時十五分。 十時二十五分。 そして。 十時半。 搬入口へ続く廊下から、車の音が聞こえた。 納品業者が来た。いつもとは違う時間、ベビーベッドが運び込まれる。 私はリビングにいた。 龍斗さんは書斎にいる。 美和さんはキッチン。 警備員は玄関側。 昨日、私は覚えた。 人の動き。 警備員の交代。 搬入口の扉が開く時間。 そして。 業者が荷物を運び込むとき、一瞬だけ人の出入りが重なることも。 今日。 ここから出る。 私は朝から何度も自分へ言い聞かせていた。 怖い。 もちろん怖い。 でも。 ここに居続けるほうが。 もっと怖かった。 私はお腹へ手を当てた。「大丈夫」 小さく呟く。「お母さんが守るから」     ◇ 十時三十分。 キッチンから、美和さんの声が聞こえた。「ありがとうございます。こちらへお願いします」 業者が来た。 扉が開く。 閉まる。 また開く。 人の声が重なる。 私は立ち上がった。「奥様?」 美和さんが振り返った。「少し、部屋へ戻ります」「はい」 私は廊下へ出た。 心臓が激しく鳴っている。 けれど。 歩く。 搬入口のほうへ。 一歩。 また一歩。 警備員がこちらを見る。「奥様」「……はい」「どちらへ?」「少し外の空気を吸いたくて」「申し訳ありません」 警備員が立ち塞がる。「社長から、外へ出さないように指示されています」「……」 私は足を止めた。 やっぱり。 でも。 ここで諦めるわけにはいかない。「搬入口へ行くだけです、ベビーベッドが早く見たくて」「それもお控えください」「どうして?」「社長の指示です」 私は唇を噛んだ。 そのとき。 搬入口の扉が開いた。 業者の男性が荷物を運び込んでいる。 警備員の視線が、一瞬そちらへ向いた。 今。 私は走った。「奥様!」 後ろから声がする。 私は搬入口へ向かった。 扉の向こう。 外が見える。 ほんの数メートル。 あと少し。 あと少しで。 外へ出られる。 私は手を伸ばした。 けれど。 腕を掴まれた。「お待ちください!」「離して!」 私は必死に振りほどこうとした。「離してくださ

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status